ヴワディスワフ・ホルディンスキー (Władysław Hordyński、1908年3月1日 - 1968年1月4日) は、ポーランドの図書館員で、クラクフにあるヤギェウォ図書館音楽部門長、上級認定学芸員である。

青年時代

ヴワディスワフ・ホルディンスキーは、中学校教師でリヴィウ工科大学数学科教員のルドヴィク・ホロディンスキーと、旧姓ヤトヴィガ・ヴァルチャックの息子であった。彼は生涯のほとんどをクラクフで過ごした。1926年、彼はヤギェウォ大学哲学科に入学した。ポーランド学を専攻したが、2年後にズジスワフ・ヤヒメツキに師事し音楽学を学び始め、1939年にポーランドの作曲家ユゼフ・ヴワディスワフ・クログルスキの生涯とピアノ作品をテーマにした論文で音楽学の修士号を取得した。

学生時代から彼はヤギェウォ大学の音楽学図書室で仕事をした。1930年からはヤギェウォ図書館で、最初はボランティア、1936年からは職員として働くようになった。同年彼は図書館司書の試験に合格した。

ヤギェウォ図書館で働き始めた最初から、彼は音楽コレクションの管理に取り組み、生涯を音楽コレクションに捧げた。旧来の方法で目録をとり体系化されていた音楽コレクションは、徹底的に研究しなおす必要があった。

戦争期

第二次世界大戦中、彼はルーマニアのブカレストに住んでいた。ルーマニア・アカデミーの図書館で音楽資料 (音楽部門のための指示も作成) に携わった。それに加え彼は音楽院の図書館や、ブカレストのビザンチン学フランス研究所の図書館の仕事もした。彼は滞在中にルーマニア・アカデミー図書館所蔵資料から、15世紀から18世紀までのポーランド研究目録を作成した (ヤギェウォ図書館月報6号と8号、1953年に掲載)。

戦争後

1945年8月に帰国すると、彼は直ちにヤギェウォ図書館音楽部門に復帰した。また貴重書閲覧室の管理も担当した。1958年には音楽部門長および写真撮影部門長となり、1964年には上級認定学芸員になった。彼は写真撮影部門の近代化に多大な尽力をした。彼の30年に及ぶ専門業務の中で、音楽コレクションは4倍になり、その目録が作成され、数多くの音楽文献が編纂され、参照コレクションが整備され、レコードコレクションが開設された。ホロディンスキーは何人もの図書館員や学生の育成にも尽力した。

彼は生涯にわたって音楽図書館の課題に取り組み、国内外の同僚たちと経験を分かち合った。彼の仕事は学術的かつ専門的であり、両方の課題に同様に取り組んだ。1948年に彼はポーランド学術アカデミーの音楽委員会委員長に任命され、また科学評議会とフレデリック・ショパン協会音楽部門のメンバーでもあった。1949年のショパン年には展覧会を企画し、関連する資料を入手するためフランスを訪れた。戦後の彼はショパンに関する資料を多く出版し、そこにはショパンがチチョスキに宛てた未公開書簡や、長い間失われたと考えられていた「ムーアの民謡風な歌による変奏曲ニ長調」もあった。彼はポーランド人名事典の著者でもあった。

1954年、彼は職業上の業績により、功労十字章を受賞した。

脚注

注釈

脚注

参考文献

  • ナイジェル・ルイス著;中野圭二訳『ペイパーチェイス』白水社、1986年 ISBN 4-560-04251-9, NDLデジタルコレクション

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LPレコード ダヴィッド・オイストラフ / G. ロジェストヴェンスキー ~ モスクワ・フィル / フリーダ・バウアー ガラ・コンサート

ヴワディスワフ2世(ポーランド王) 世界の歴史まっぷ ヤゲウォ朝創始者。リトアニア大公だったがモンゴル勢力とドイツ騎士団の圧力に抵抗する

Willi Boskovsky / ウィリー・ボスコフスキー「Liszt:Hungarian Rhapsodies / リスト ハンガリア狂詩

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