村田 惇(むらた あつし、1854年11月22日(嘉永7年10月3日)- 1917年(大正6年)3月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍内のロシア通として知られた。旧名・繁太郎。

経歴

本籍静岡県。江戸で幕臣・高野勘四郎尹元の二男として生まれ、村田政の養子となった。

明治3年(1870年)9月より沼津兵学校で資業生(第6期)として学び、明治4年(1871年)1月、沼津兵学校から貢進生として大阪兵学寮幼年学舎に編入。1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学し、1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官。同年12月、陸士砲兵科を卒業し山砲兵第4大隊付となった。

1882年(明治15年)、陸士教官に就任し、参謀本部長伝令使、フランス・イタリア留学、陸軍砲兵射的学校教官などを歴任し、1891年(明治24年)11月、砲兵少佐に昇進。1893年(明治26年)11月から1897年(明治30年)10月まで参謀本部副官を務め、この間、大本営管理部長、第2軍副官(日清戦争出征)を兼務した。1895年(明治28年)3月、砲兵中佐に進級。

1897年(明治30年)10月、砲兵大佐に進級し第4師団参謀長に就任。1898年(明治31年)5月、東宮武官となる。翌年4月から1902年(明治35年)8月までロシア公使館付として勤務した。

1902年5月、陸軍少将に昇進。参謀本部付を経て、同年12月、佐世保要塞司令官に就任。大本営幕僚付(外国係)、韓国統監府付などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍中将に進み築城部本部長となった。1914年(大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入となった。

栄典

位階
  • 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位
  • 1895年(明治28年)7月15日 - 正六位
  • 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位
  • 1902年(明治35年)9月20日 - 正五位
  • 1907年(明治40年)10月11日 - 従四位
  • 1912年(大正元年)11月20日 - 正四位
  • 1914年(大正3年)9月1日 - 従三位
勲章等
  • 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章
  • 1895年(明治28年)10月18日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章
  • 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章
  • 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章
  • 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章
  • 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章
外国勲章佩用允許
  • 1887年(明治20年)3月14日 - オスマン帝国:メジジエ第三等勲章
  • 1895年(明治28年)10月14日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ
  • 1896年(明治29年)12月19日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第二等勲章
  • 1897年(明治30年)9月10日
    • スペイン王国:シャールトロワー第二等勲章
  • *イギリス帝国:銀製ジュビリー記念章
  • 1902年(明治35年)12月26日
    • ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章
    • ロシア帝国:神聖スタニスラス第一等勲章
  • 1905年(明治38年)7月6日 - 大韓帝国:勲一等八卦章
  • 1910年(明治43年)5月10日 - イギリス帝国:バス勲章ナイトコマンダー

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 樋口雄彦『旧幕臣の明治維新 - 沼津兵学校とその群像』吉川弘文館、2005年。ISBN 4-642-05601-7
  • 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8

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